「アフターダーク」

村上春樹2004年の作品
23:56から6:52までの6時間56分間の物語。

様々な色に塗られた通勤列車が思い思いの方向に動き、多くの人々をひとつの場所から別の場所へと運んでいる。運ばれている彼らは、一人一人違った顔と精神を持つ人間であるのと同時に、集合体の名もなき部分だ。ひとつの総体であるのと同時に、ただの部品だ。そんな二義性を巧妙に、便宜的に使い分けながら彼等・・我々は日常を送るなか、原因と結果が手を結び、総合と解体が均衡を保っている。日常とは、決して築き上げられた揺るぎない安定ではなく、手の届かない、深い裂け目のような場所がこっそりと暗黒の入り口を開き、私たちの原理が何ひとつ効力を持たない場所へいつどこでその深淵が人を呑み込んでいくのか、いつどこで吐き出してくれるのか、誰にも予見できない不安定なものなのかも知れない・・
エリとマリの心の溝のようにちょっとしたことで大きな変化を遂げてしまうはかなさを自らの人生に照らしてみると、取り返しの付かない事なんて、稀に起きる人生の転機にだけ起こりうることではなく、朝食の合間にも起こりうる訳で、そんな不確定なものの上を歩いているようなことが人生なのかと・・考えようによっては何も不思議ではないにせよ、改めて実感するとなにやらいつもと同じ一日の始まりが昨日とは少しだけ違う感じがしてしまう。

小説の進行は、限りなく具現化された時間軸の中で接点を持たない人々がそれぞれの行動をする中、彼ら自身には分からない奇妙な接点を見いだしていく。読者は主人公の主観ではなく、「視点」として存在する。が故に見える接点、そこにはなにか暗示がかった不思議なメッセージが含まれている気がする。
主題とは離れるが、トルストイの「アンナカレーニナ」を読んでいる時期に、チャイコフスキーのコンサートで思い描いた田園風景が「アンナカレーニナ」からイメージした風景に恐ろしく合致したことに驚き年譜を追ってみたところ、「アンナカレーニナ」とコンサートで聴いたヴァイオリン協奏曲の発表年近くに彼等の接点があった事が分かり歴史の交錯、違う人生の接点というものを非常に感慨深く思った事を思い出した。

歴史は交錯し、人生はいくつもの気づかれない接点をもって、そして見えない深淵の縁を知らずに踏みつつ着実にそして一定に進んでいく。
自らが自らに対し強くあれ。それこそが・・いや、それのみが自らをその大地に踏みとどませる唯一の手がかりなのかも知れない。

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